ヒトコマラクダの日記

日々読みふける4コマ誌から1コマ引用して日記にします。基本は「自分語り」ですのでご承知おきください。

「正しくない努力」や「無意味な苦労」を重ねている人ほど「報われない我が身を呪う」傾向が強いかもね。

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頑張ったら何とかなるかもしれない。ならないかもしれない。でも頑張らないという選択肢を選んで、みすみす「頑張ったら何とかなった!」という未来を手放すのは、つまらない人生だと思うのですよ。

とはいえ、あまりピント外れな努力ばかり続けていると、いつまで経ってもどうにもならなくって、そんな現実を「自分の中で折り合いを付けよう」とする心の作用で、知らないうちに「ねじ曲がったモノの見方・考え方」がすっかり定着してしまったり…。

あー、こういう話をしだすと「ジジィの説教」くさくなるのでこの辺でやめますね。

 

ともあれ不夜城さん。今回はあちこちに個人的に感じる名言があって、ヒトコマを選ぶのにちょっと悩みました。ホントは「4コマ目以降なら誰も見てないさ」を取り上げたかったのですが、どうにもムズカシすぎましたね。

ときどき見失うけど、やっぱり「一生懸命の大切さ」を、自分の価値観の真ん中に据えておきたいと思うのです。

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「しょうこセンセイ!」by なじみ まんがタイムきららMAX 2018年6月号 p179 芳文社

 

単行本も出ている作品なのに、いきなり新連載第1回からヒトコマ引っぱってきてしまいましたが、なんとなく新年度スタートの時期だしやっぱこのコマかなって。

 

人間が成長するということは、たぶん「要領の良さ」とか「力の入れどころ」とか「バランス感覚」とか、そういうものを身につけていくことなんだろうとは思います。でも、それって飛行機で言えば「十分な高度に達して、巡航状態」になっているわけで、そこへ至る段階で、どこまで「上昇することに一生懸命になれるか」が、きっと大事なんじゃないかなって思うのです。

自分より、年齢や能力やいろんなものが上でも下でも、「まだまだ上昇中で一生懸命」って人は、ホントに応援せずにはいられなくなると言うか、自分ももっと頑張ろうという気持ちにさせてくれるのです。そんな人が近くにいると、きっとその周りの人もプラスの影響を受けて、より上昇できる。よく言う「Win-Winの関係」って、本当はそういうことであって、ビジネスで使われている意味のはちょっと違う気もしなくもないです。まあ、それもありですが。

で、そんな「一生懸命な人」との関わりで、一緒に一生懸命になれるのもイイんですが、同時に「応援してあげる人」もステキだと思うのです。タイトルにも書いたように「一生懸命」って案外見失いやすいものですから、そこで「大丈夫!そのまま一生懸命で大丈夫だよ!」って、見守って応援してあげる人がいてくれると、もっともっと上昇できるんですよね。

私の亡くなった親友は、それがとても(私にとっては)上手でした。

気がつくと「巡航高度」に達していて、まだ先だとは思いたいのですがそろそろ「降下と着陸」も考える時期が近づいているようですね、私も。

 

…とか思っているところに、この「しょうこセンセイの教え子の坂下さん」は、まだまだ「一生懸命になれる」気持ちを思い出させてくれました。感謝。

「しょうこセンセイ!」自体、連載当初はマークゆるめでしたが、読み返すタイミングが良かったのか、最近の自分のなかではじわっとハナマル作品です。ガシガシ推すタイプの作品じゃないんですが、じんわりとオススメしたいのです。

仕事やら何やらがヘヴィな状況になると、つい「エンタメ断ち」をしがち。でもたぶんそれって逆効果で、ホントは「エンタメでリスタート」すべきなんですよね、きっと。

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「ちこはゲーセン一番星!」by とく村長 まんがタウン 2019年5月号 p172 双葉社

 

…ゲーセンはいま住んでいる周辺にはありませんが(それこそクルマで1時間とか:笑)。

でも「忙しくてセッパ詰まった状況でも、なにかしらの強制的なブレイクタイムをもつ」必要は感じることがあります。実際いまがそうです。ブログ更新してる場合じゃないです、ハイ。

それでも、休憩がてらこういう時間をつくれれば(ラインとかで働いているとムリかもですが)、ただボーっと休むんじゃなくて「自分のテンションが上がること」をやる方が、いくらか良さそうな気もします。少なくともいまはね(言い訳)。

例えとして適当か分かりませんが、クルマがオーバーヒートしたときって、煙(水蒸気?)が吹いていても「エンジンは止めちゃダメ」なんですよね。とりあえず停車したら、ボンネットを開けて「アイドリングさせながら冷却ファンを回し続けて、ゆっくり冷えるのを待つ」ことが大事。精魂尽き果てそうでも、負荷こそ緩めるにしても、そこで「自分のペースを取り戻せる何か」をやることで、コンディションを整えて「復活!」できるんだと思います。

そういうとき、自分のスキなことがゲームならゲーセンで、読書なら本を買って喫茶店とかで…あと何だろ、音楽ならどこか静かなところでスマホにダウンロードして、スキなことをしながら「ちょっと逃避」するのがよろしいかと。ちなみに私の場合、どうしても「仕事いやだ仕事いやだ仕事いやだ×∞」モードのときは、とりあえずクルマで走ります。可能なら「スイマセン今日急用で○時間遅れます」って電話して、その時間内であてもなくドライブしたり…。

そうこうしていると「ま、いっか」という気分になって、多少のアキラメ気分とともに仕事に復帰できるものなんですよね。いえ誰でもそうだとまでは言いませんが。

 

というわけで「ちこゲー!」も最終回。たぶんヒトコマ取り上げたことはなかったけどスキな作品でした。ちょっと前のブログの「まちカドまぞく」の店長のセリフでもそうですが、この作品のちこちゃんも「誰かの居場所をつくること」で、その「誰か」と共有できる「喜びやシアワセ」を感じられたんでしょうね。私もそんな人間になれたらイイな、いまからでも…。

作者さん、芳文社系の印象しかなかったのですが、アーススターとかにシフトしてたんですね。次はどこらへんで読めるか楽しみですが…できれば4コマ系だと追いかけやすいのですが(勝手な)。

「好きか嫌いか」と「良いか悪いか」。個人的には「自分ならどっち?他人に勧めるならどっち?」という尺度がケッコウ大事です。

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「良倉先生の承認欲求」by G3井田 まんがタイム 2019年5月号 p59 芳文社

 

「自分がどうしたいか?」「自分はどう思うか?」って、いとも簡単に見失うことが多いんじゃないでしょうか。少なくとも私はそうです。そうでした。

ただ、年を取ってくると、自分のなかに「二通りの方向性」が出てきています。これまでの経験知とか、積み重ねてきたことで見えてくる高い視点とか、いわば「年長者の自分が身につけてきた評価力」に応じる選択と、もうひとつは「自分のなかのよりプリミティブなセンサーが好むもの」に従う選択と、です。

自分が自分のために選択するのなら、悩みながらでも「自分への責任」で済むのですからまだいいのです。失敗もあって当然。良い方より好きな方を選んで、マズったかなぁと思うことがあっても、満足できますからね。

一方、自分以外の誰かから「これどう?」って訊かれたときは、なかなか難しいものがあります。そんなときの答えかたとして、最近は「私があなたに勧めるのはソチラ。私が自分のために選ぶならコチラ。」というような、二種類の回答をするようになりました。要は「良い方を勧めながら、好きな方も教える。」とでも言いましょうか。

「良い方を選んでも、好きになれないとNG」だと思います。でも「好きな方を選べば、良くなくてもオーライ!」なんじゃないでしょうかね?たぶんそうです。

いまふと思ったんですが、私の周囲には「結婚しないつもり」の人がそこそこの数いたりします。けれどそういう人って、たまに私に「結婚って、どう?(して良かった?)」と訊いてくることがあるんですが、大抵(相手によるので常にではないですが)「結婚は…しなくて良いと思うよ。」と答えます。するとほぼ全員が「じゃあ何でラクダは結婚したの?」と訊いてくるのです。それに対する私の答えは…いわずもがな、ですね。

実際のところ、いまの家内がこの世に存在していなくて、あのころの自分自身をとります状況が違っていれば、私は「結婚しない方が良い」と思っています。相手とか環境とかが、偶然「結婚しよう」と思えるようなめぐりあわせだったから結婚しただけで、あの頃にタイプスリップしたとして、家内と、自分の周囲が、もし違っていたら、独身でいた方が良いと思うし、そうしていたでしょう。

 

まあそういう話は長くなるのでこのへんで…で、承認欲求。この作者さんは前から知っていますが、ヒトコマ取り上げるのは初ですね。

ときどき「作品(の良し悪し)と作者(の人間性の良し悪し)は別。一緒くたに評価してはいけない」などと言われます。作品を「良い」と言ってもらうより、「好き」と言ってもらう方がウレシイんじゃないでしょうか。少なくとも私はそうですね。

テクニカルな作品は「良い」ことが求められ、作者も「より良いものを生み出そう」と頑張ると思うのですが、クリエイティブな作品は「好き」の「共有」が、作者への評価と次の作品への原動力になる気がします。もちろんテクニカルであることを軽視するつもりはありません。むしろテクニカルな部分が、クリエイティブな「情動」を「作品」として仕上げる上では、とても重要だと認識していますから。

で、やっぱり「自分の好きを形にした『作品を好きになってくれること」は、作者にとっては一番の賞賛となる。作品と作者は「好き」の複合体で、それを受け取る側でも「好き」が共有できれば、それはとても素敵なことだと思うのです。

そこで重要なのは「好き」を発信して、共有するのを「現実に行うこと」。それはSNSでもできなくはない。いや、「好き」の発信手段には「現代でベスト」かもしれない。だけど「直接作者に伝える好き」は「常に最強」だと思うのです。

蛇足ですが「嫌い」は共有する(発信する)必要は無いんじゃないかなぁ。だって作者と作品の複合体には「嫌い」が存在することはあり得ないんだから。

あと作者さんのペンネームって、RCサクセションの「Gee2wo」さんとか「新井田耕造」さんと関係あるんでしょうか?なんか「G2」と「新井田」が合体しているような気が…。

しっかり時間かけて取材したのに、ほとんどオンエアにノせられなかったときは、次会うときにものすごいプレッシャーを感じます。

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「歌詠みもみじ」by オオトリキノト まんがホーム 2019年5月号 p156 芳文社

 

さすがに面と向かって苦情を言われることはそう多くないのですが、やはり「ちょっと短くねー?」というオーラを感じることが…。

それでもまだ地上波の報道や制作くらいなら、撮られる側も大きな期待はしていませんが、それが「製作費○億!」とかいうノリの映画だと、エキストラの人も「自分がどれくらい出ているか」に過度な期待をしてしまうのかもしれません。いえそういう経験はしてないので知りませんけど。

個人的には、もう何十年も前ですが「アイマックス」という巨大映像のドキュメンタリーに、まったく意図せず映り込んでいた経験があります。上映当時、いろんな人から「しっかり映ってたじゃんwww」と言われて、返す言葉に困った記憶があります。まあホント5秒か10秒かなんですがね。

 

さておき歌詠み。ホームの良心のツートップ(もうひとつは「もんもん(熊野みみ)」だと思ってます)。今回もなかなかなテーマを持ってきましたね。学生時代は「幼い思考回路ゆえの拙い自己顕示欲発散方法」をほとんどの人がもっていたと思います。そのへんを逐一「五・七・五・」にからめて4コマに仕立てる作者さんの能力には、もう感嘆するしかありません。いやホント単行本は出ないのでしょうか?

「言葉にするとウソに染まる」という歌詞がありましたが、個人的にそれは正しいと思っています。

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「おにいちゃんと呼ばないで」by 桐原小鳥 まんがタイムスペシャル 2019年5月号 p38 芳文社

 

よく家内にも「ちゃんと話をしようよ」って言われるんですが、タイトルにあるように「言語化すべく思いを整理すると、そこにウソが生じる」ことを感じてしまうので、言葉にするのはスキじゃないですね。

まあこの話は置いておいて…。

 

いよいよ次回が最終回の本作。本当にスキな作品なんですが、連載が長く続くよりも「不要な盛り盛りをせずに終わるべきところで終わってほしい」とも思っていました。どうやら良い感じでフィナーレになるんでしょう、かね?

なんの不自然さもない理想的な家庭で育った人(いるのか?)には、きっと分からないんだろうな、と思うのですが、桐原小鳥さんの作品には「家族愛」についての「作者の想い」がにじみ出ているように感じて、どの作品もスキです。血のつながりがある人間同士と、そうではない人間同士、そしてその両方が「家族」というつながりを持つのが「家庭」。その「なにか表現できないモノや感情その他いろいろ」が、じわっとくるんですよね。いやまあ読み手の勝手な感情かもしれないのでアレですが…。

正直、作品が終わることには、ネガティブな気持ちよりも「次はどんなステキな作品が読めるのだろう」というポジティブな気持ちでいます。

「喫茶店をやりたい」という想いは、私も学生時代からずっともっていまして、ホントにこの店長のセリフみたいな「誰かの居場所をつくりたい」という気持ちでしたね。

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「まちカドまぞく」by 伊藤いづも まんがタイムきららCarat 2019年4月号 p23 芳文社

 

学生時代はほぼ毎日と言っていいくらい喫茶店に入って(入り浸って)いました。

 

大学の門の前にあった喫茶店に行けば、大抵知り合いの誰かがいたし、たとえいなくてもマスターや奥さんと話したりできた。駅前のビルにあった、夜はスナックになる喫茶店では、何度かアコースティック編成のライブも演らせてもらった。カツカレーのおいしい喫茶店ボンゴレスパゲッティのおいしい喫茶店、ポットで出てくる紅茶専門の喫茶店…やばい思い出すと泣きそうだ。

いろいろな店があって、それぞれに良さがあって、そんな居心地の良い喫茶店で時を過ごしていると、いつしか「自分も誰かに居心地の良さを提供したい」と思うようになっていた。いろんな想像をふくらませ、いろんな店を妄想し、見取り図を描いてみたりもした。楽しかった。

そんな学生時代も終わり、(2回目の)社会人として働きだすと、不思議なくらい喫茶店に入らなくなった。学生時代を過ごした街に比べ、明らかに「文化過疎地」にある会社に勤めたので、周りで「喫茶店時間」を楽しむ人も、それに適した店も少なかった。

自分が喫茶店を楽しむ時間が減るにつれ、喫茶店をやりたい気持ちもしぼんでいってしまった。350円のコーヒーを飲む機会は無くなり、毎日インスタントばかり。こわいことに「それに不満を感じない」自分になってしまっていた。残念ながら、いまもそうだ。

 

今回の「まちカドまぞく」のこのコマ、この店長の言葉は、学生時代の気持ち、喫茶店について「楽しかった思い出」を呼び起こしてくれました。すぐ何かアクションを起こすわけではないけど、学生時代とはまるで違う「いま」の自分でも、何か楽しいことをやれるんじゃないか…そんな気持ちになっています。いまさらだけど、やっぱり名作ですよね、「まちカドまぞく」は。